夢をみる人

明日があるから夢を見る

今しかないから振りかえる

いつか猫たちが文明を持ったら

 「いつか、この猫たちが僕らよりも進化して、そうして文明を築いたら、今僕らがやっていることを、どう伝えていくんだろうね。」

 野島 祐悟はそう言って、僕らを見下ろすように階段の上から見下ろして言った。

 「なんだよ、保護した猫たちの去勢をやめろって言うのかよ?」

 「いつの時代のどこの国で、同じようなことを人に対してもやっていたって知ってる?」

 「宦官とかの話?聞いたことあるけど、それと一緒にするのはちょっと違うんじゃないの?」

 野島の攻撃的な物言いに、水島 純一と北原 鈴菜が食って掛かって言い返した。けれど野島の表情は変わらないで、射るような目で僕ら三人を見据えて、怒りながら抑えているといった口調でさらに攻撃をしてくる。

 「去勢されたら、もうその猫は子孫を残せないよね。」

 「しなかったら春先には子猫が生まれて、5〜6匹づつ増えてくのよ。二匹がそんだけ増えるんだから、それが毎年になったら大変なことになるでしょう。」

 「大変なこと?それって、どうなるって言うのさ?」

 「馬鹿じゃないの!?子猫が増えてそこら辺に捨てられて、そうしたらまた保健所で処分される子が増えて、って想像力もないの?」

 野島の目線が、鈴菜に集中していく。思わず僕と純一も鈴菜の方を見て、そして力強く頷いた。

 「馬鹿は君だ、北原 鈴菜。そうやって目の前の問題にばかりとらわれるから、全体が見えない。」

 「なによ!その言い方!全体ってなんのことよ!?」

 野島の目つきがさらに厳しくなっていく。あの目は本気で僕らに対して怒っている目だ。

 「だからさっき言ったろう。猫たちが僕らよりも進化して、そうして文明を築いたらって。そう考えて、今どうすべきかを考えなきゃ、今君がやろうとしていることは単なる種の根絶だ。」

 「根絶されるわけないでしょう!世界中に猫がどれだけいるって思うのよ?」

 「人よりも多いとは言えない。飼い猫に関しては2003年の時点で、おおよそ世界中に6億2千5百万匹いるといった報告も出されている。日本だけで言えば7百30万匹、2014年には9百8十万匹に増えたという調査報告もある。」

 そこまで言い終えて、野島は深く一息を吸った。

 「人類70億に対して、約10分の1の数だよね。けれど野生の猫は?数はどれだけいると思う?」

 「そ、そんなの知らないわよ。ていうか、知ってたって意味無いでしょう!私たちは飼い猫の保護をしているんだから!」

 鈴菜はそう言い返して、負けまいと野島の目を睨み返した。まさに一触即発といった感があり、僕はハラハラしつつも、いざとなったら野島を押さえつけるために動こうと体を移動させる。野島は野島で、鈴菜を睨みつけるのをやめて純一に目をうつして、それから僕を見て言った。

 「小田切君、君なら答えてくれるかい?猫たちが僕らよりも進化して、そうして文明を築いたら、僕らの今やっていることを何と伝えているだろうか。」

 急にふられて焦った。が、焦りながらも想像力が言葉を紡いだ。

 「第二次世界大戦の後で、ユダヤ人がドイツのナチスに対して思ったようなことを、もし仮に猫が文明を持った日が来たとして、そうして僕らが猫を去勢していたということをどこかで知ったとしたら、思うかもしれないね。ガス室に送られなくなっても、そのかわりに去勢だなんて、僕が猫だとしたら絶対に嫌だもの。」

 答えを聞きながら、僕は鈴菜に噛みつかれるかと思うほどの怒気を送られ、そうして純一はどこか頷くような感じ。野島は、目を閉じて何かに思いを巡らせているような態度だった。

 「やっぱり、こういった質問は君の答えが一番しっくりくるね。」

 そう言うと野島は、階段の上から僕らの方へ下りながらつづけた。

 「北原さん、君の答えじゃ足りない。自分たちがどれだけ恐ろしい選択をしているのかを忘れたら、やっていることはナチスと変わらない。そう、小田切くんは言ってくれた。」

 「なによそんなの!それっくらいわかっているわよ!」

 「だったら笑いながら子猫の前で、明日は去勢手術だねとか言うな!」

 「なによ…。いいじゃないそれくらい。私なりに励まそうと思って頑張ったのに何よ!」

 「励ますにも他にいくらでも方法はあるだろう!なのになんだよ!子猫の両手を持ち上げてオネエ言葉で。なんて言った!?」

 「いいじゃない…。もうやめてよ。なによ、どうしてそんなに責めるのよ…。」

 鈴菜が半泣きになっているのに気がつくのが遅れた。せっかく今年になって入ってきた新入生なのに、野島の馬鹿は容赦がない。

 「はいはいはいはい!そこまで。野島!やり過ぎだって何度言われたらわかるんだよ!この馬鹿!!」

 僕はそう言って野島の頭を平手ではたいた。鈴菜が泣き出していることに、そうしてようやく野島も気がついた。純一はいち早く察していたみたいで、廊下の先を両手にジュースの紙パックを持ってこちらに駆けてきている。

 「ったく、ごめんな、鈴菜。こいつ毎年新入生がくるとこうでさ。三年前に僕もおんなじように言いたてられてさ、純一なんか去年思いっきり泣かされて今だにこいつ見ると引く癖がついてるくらいさ。」

 「…私も、そうなりそうです。」

 ぐしゅぐしゅっと泣き腫らした目で、状況を理解した鈴菜が僕らを見て答えた。

 

閉じられた書物は二度と開かない、人

 結局のところ、野島の言い分も鈴菜の言い分も、どちらにも同じように正しさがあり、そして同じように間違いがある。けれどだからといってどっちもしないはない話だし、それじゃあどっちをするのかと言ったら、そもそも野島の言い分でこれまでやってきた人々がいて、その結果捨てられる猫があちこちに増えて、そこから生まれた言い分が鈴菜の言った方なのでそっちをとるしか今は他に方法はないのだ。それでもあんなことを野島が言うのには理由がある。といったところで言い分が通るはずもないのだが。

 「ちょっと、小田切。何考えこんでんだよオダギッチャン!」

 野島の馬鹿声が考えを停止させた。

 「いや、君がどれだけの大馬鹿なのかをね、ちょっと考察してた。」

 「なんだよそれー。」

 とかく、この子は頭でっかちで手がつけられない。と、こいつの出身校の先生は挨拶しに来て言った覚えがある。高校から動物に興味を持ち、飼育記録や観察報告などでずいぶんといろいろな話題をさらったスーパー高校生だったんだが、うちの大学に入る前からこの部にいて、そうしてでかい顔で威勢を存分に張り倒していた。なんで先輩たちがこいつを張り倒さなかったのかそこがよくわからない。そうしてついに今年、うちの大学に入学してきたわけだが、鈴菜にとっては最悪のできごとになっていたりするんじゃないかと。…心配だ。

 「だ・か・ら!小田切!!」

 「る・る・さ・い!思案ぐらいゆっくりさせろ!」

 「てかだったらさっさとこんな部屋の掃除おわらせて俺開放してくれよ〜」

 「え?」

 言われてあたりを見回すと、僕はいつの間にか部室の掃除をさせられていた。

 「なんで僕が君と部室の掃除を?」

 「なんでって、北原にそう言われたじゃん。」

 「あ!」

 そうだった。あの後、鈴菜と純一が二人してやってきて、あれこれ言われて面倒だからと引き受けたんだった。

 「あああぁ。大学4年にもなってまた部室の掃除をさせられるとは…。」

 「バッカじゃねえの。」

 「うるさい!こうなったのもお前がやり過ぎたのが原因なんだからな。僕はここでこうして思案にふけっているから、掃除はお前がひとりで片付けてさっさと帰りなさい。」

 「何だよそれ、先輩風ふかしてさ〜。」

 

1000年の夜が訪れて、やがて開ける朝

夢をみない人の下には、夢も見れない人が育つよ

Aether fabula

青い扉と銀の鈴

青い扉と銀の鈴 1

Aether fabula

青い扉

青い扉と銀の鈴

 青い扉と銀の鈴は、娘にとっては特別なものだったらしい。いまさらそんなことを思い出して何になると、そう責める自分を右肩の上にずしんと重く感じた。今頃はもう大学を卒業するころかな、と考えながら駅への道を急ぐ。思い出してみればおかしな話だ。

 娘と僕の間には血縁関係はない。というかそもそも、娘の母親とは面識すらなかった。会ったこともないのに、おかしな縁があった。それを縁というならばの話だが。

 「青い扉は明日への扉、開くためには勇気がいる。赤い扉は昨日への扉、閉じるためには覚悟がいる。銀の鈴よ導いて、真実を見定める調べを響かせて、青の扉へと導いて。」

 高校を出て舞台演劇にはまっていた僕は、知り合いの劇団に誘われて地方の学校を巡る公演に参加したことがある。小学校低学年向けに制作されたそのお芝居の中で僕は、青の扉を探して歩く少年の役をしていた。妹の手をひいて、深い森の中をうたいながら歩くという設定だ。元になった話はヘンゼルとグレーテルで、それに真夏の夜の夢やオズの魔法使いなんかもまぜこぜにされた戯曲で、結構楽しかった。僕自身はその後10年もしないうちに演劇の世界からは手を引いてしまったけれど、舞台じたいはけっこうな人気作品だったらしく、その後も代替わりして続いていると聞く。

 たぶんあの子はその舞台を見たんだろう。そうして夢をみた。荒唐無稽な妄想と言えるかもしれない。心ある親なら、血相を変えて𠮟りつけるものかもしれない。

 …そのおかげで僕はずいぶんな目にあったんだが、結果オーライということでまあいいか、と思っている。

切欠

 新しい現場にうつって1週間が過ぎたころ、僕は少しばかり早めに帰宅の途についた。帰り際に現場の同僚から「今日は珍しく早いですね」なんて言われて少しばかり後ろめたい気もしたけれど、天気は上々で作業の準備も順調だったので、フレックスタイムをつかって明るいうちに家に帰ってきた。

 僕の暮らす家は当時、二階建ての洋風なアパートで、入り口のドアが中庭に面していて空色の青い色をした洒落た建物だった。駅から歩いて10分くらい。帰り着いたら今日届く予定のパソコンを組み立てようと考えていた。1週間ほど前にオンラインストアで購入した最新のものだ。ネット環境も大手の通信業者に変えたばかりだし、これでこれから始めようと思っていた仕事の準備が完了する。そんな思いでワクワクしながら、表の扉を開けて中庭へと向かい、自分の部屋の青い扉を見て驚いた。

 扉の前に、女の子がいた。

 華奢な体つきに見るからに幼い顔で、どう見ても小学生くらいにしか見えない。黒のコートを手に持って、大きな旅行鞄を体のわきに立てかけてある。その子が、こちらに気がつくとペコリと頭を下げてこう言った。

 「あの…、はじめまして。私、ヤコと言います。えーと、川澄 白(かわすみ ましろ)さんですか?」

 見慣れない子供から丁寧に名前を呼ばれ、僕は思わず首を横に振ってしまった。

 「あ、えっと、怪しい者じゃないです。えっと、変な者でもないですから。」

 そう言いながら必死になって話しかけるその子が、言えば言うほど怪しくも変にも思えて、僕は踵をかえして中庭から外へと逃げるように出ていった。表の扉を開いて通りに出ると、駅のあるほうへ向かいながら必死になって考える。いったいなんだ?あの娘は?いったい誰だ?何をしに来たんだ?誰か他の奴と間違えているのか?上の階のやつか?しかしいくら考えてもどの問いにも答えは見つからない。結局、駅まで10mほどを歩いたところで、立ち止まってこう考えた。なんにしたって脅されるわけでもないだろうし、まさか小学生をつかったハニートラップってのも考えにくい。そう考えて、もう一度家へと向かった。

 家の前にもう一度来ると、青い扉の前で女の子は座り込んでいた。両膝を抱えて、少し泣いているのか、肩が上下している。

 「ちょっと、君?こんなところでどうしたの?」

 そんな差しさわりのない言葉をかけると、女の子は顔を上げてこう言った。

 「お母さんに言われてきたんです。お母さん、もう長くないからって。これを持ってお父さんのところへ行きなさいって…」

 最後のほうは涙声にかすれてよく聞き取れなかった。女の子が手にしているものを見ると、それは掌にちょこんとのった銀色の鈴だった。

 「それは、僕がずいぶんと昔につくって、当時の仲間たちに配ったものかな?」

 その言葉を聞いて、女の子の顔がパーッと明るくなる。…僕がつくった鈴だというのは認めたが、父親だと認めたつもりはない。

 「それで?どこから来たの?お母さん?の名前は?」

 そんな冷たい返答を待っていたわけじゃないと言わんばかりに、女の子はまた膝を抱えて泣き出した。これは困ったなと、正直思った。

青い扉

 そのまましばらくは、僕とその女子のふたり、扉の前で互いに困り果てて黙り込んでいた。僕にしたらこの子は、突然現れて身に覚えのないことを言う不審者で、この子にしたらこの僕は、…百歩譲って言っている言葉を信じれば、どうやら生き別れのお父さんということらしい。

 そもそも僕は、そのお父さんになるようなことに心当たりがない。経験がないわけではないが、付き合った相手とはそういうことも含めてちゃんと別れた後も連絡をとってきた。最低でも1年は互いに話ができるような別れ方をして、だからこれまでこうした子供が生まれたなんて話しは聞いたことがない。仮にそういうことを隠して黙ったまま産んでしまったなんて相手がいたとして、思い出す限り、これまでお付き合いをさせてもらった女性たちがそう覚悟して行ったのならば、病気で後がないからといって僕のところによこすわけがない。みんな、もっと頼りになる家族や親戚がいた人たちばかりだ。

 僕は生まれてからこの方、誰かに心を許したこともなければ、本気で愛したこともない。ときおり何を思ったのか、僕のことを好きだと言ってくれる人が現れて、その流れでしばらく一緒にいることもあった。けど、最後は結局、僕はその人の求めるものを何もあげることなんかできなくて、そうして終わっていく…。僕としては何を欲しいにせよ、ちゃんと言葉にしてもらえないと何をどうしたらいいかわかりっこないって言い訳はある。言わないで悟れなんて、超能力を求められてもそんなのは叶えようがない。むしろそうした態度に、逆に僕は怒りを覚える方だ。忖度だのなんなのはもっと歳をとってから望めばいい。

 そんなわけだから、今のこの状況も当然僕にはストレスでしかなかった。

 「ふぅ…。」

 なんの進展もないまま、そろそろ30分くらいこうしているような気がする。これでは埒が明かないので、僕は女子を押しのけて家に入ろうと決めた。

 ずいっと、一歩踏み出す。すると女の子は、びくっと後ずさって身構えた。

 「ちょっとどいて。そこだとドアが開けられないから。」

 おどおどしながら女の子はドアの前を移動していく。移動しながら、初めて気がついたのか、ドアを見てぽつりとつぶやいた。

 「青い扉だ…。」

 その言い方に、すいぶんと遠い昔の懐かしさを感じた。僕は思わずこう聞いた。

 「青い扉って言い方、お母さんに聞いたのか?」

 「…うん。」

 「…青い扉は見知らぬ世界への扉。赤の扉は?」

 「…元の世界へと戻る扉…。」

 何のフレーズだったろうか?昔のCM?いや、思い当たらない。何かの小説?あったかもしれない…。そんな思いがそのまま言葉になって出た。

 「何のフレーズだっけ。」

 「…知らない。お母さんがずっと言ってた。台所とか、洗濯機の前で…。」

 「家事をしながらか…。」

 なんだっけな?と思いながら、僕はドアをあけて中へ入ろうとした。すると少女も当然のようについてこようとする。僕は思わず言ってしまった。

 「僕はお父さんじゃないから。それでもいいなら中に入ってもいいけど。」

 言ってから気がついたんだが、そんな言い方はまるで、中に入ったら変なことするぞ的な脅しのように聞こえる。なので慌てて取り繕った。

 「変な意味じゃなくて、だから変なことをするわけもないからな。僕が言いたいのは単に、僕は君のお父さんじゃあないってことだ。」

 少女はその言葉を聞いて、大きなまんまるの目で僕をじっと睨むとまたあの鈴を掌にひろげた。

 「お母さんが、お父さんならきっとそう言って譲らないだろうって言ってました。そしたらこの鈴を見せるようにって。」

 その掌にのせられた銀の鈴は、見まちがうこともない、あの銀の鈴だった。全部で13個つくって、誰かに渡したのは10個だったろうか。仲のいい仲間だったと僕は思っていたけれど、あの中にそういう深い仲になった相手はいない。というか、10個中の半分以上は男だ。いや、となると残る女性陣のなかに、この子の母親はいるってことなのか?

 いろいろと考えることが立て込んでくる。非情なストレスを感じる。このままだと埒があかないと思い、僕は少女と交渉しようと決めた。彼女を見ると、また今にも泣きだしそうな顔でいる。このままじゃ話が進まない。とにかくどこかで、そうだ人がいるところがいい。僕が変な人じゃないって証になるだろうから。いや、逆効果か?のちのちこれが少女誘拐とか援助交際とか騒がれたりしたときに、申し開きができるようにしておかなければ…。

交渉

 「まず最初に約束してほしい。家の中では、お父さんと呼ばないこと。外へ出て一緒に食事したりするときは逆に、お父さんと呼ぶこと。」

 「はい。わかりました。」

 ヤコと名乗ったこの娘は、実はもう中学三年生で、生まれは北海道の港町らしく、母親は病気で今はどこかの大きな病院に入院しているらしい。ここまでは、家の前で泣き出したヤコを言葉でなだめすかしてなんとか近所のファミレスまで連れ出し、小さな女の子が好きそうなものを一通り注文してそれが出てくるまでの間に尋ねたらわかった。思った以上に素直な子供だなと思った。

 「で、お母さんがこの鈴を持ってて、それを君に手渡して、僕の所へ行けと言った…。」

 「はい、そうです。」

 背筋をピンと伸ばしてそう答えるこの子に、まったくこれっぽちも自分の血を感じられない。受け応えだってそうだ。こんなにはっきりと受け応えができて、しかも素直。…どう考えたって僕の子供じゃあない。それは最初からわかっていたことなんだが、じゃあなんでこの子はそう思い込んでここまで来たんだろう。そんな好奇心がだんだんと明確になってきた。

 「君とお母さんの苗字は、水嶋でいいんだよね。しまは山編の方の嶋?」

 「はい。」

 するとそこにウェイトレスさんが注文した料理を持ってやってきた。

 「ほら、ヤコ。好きなだけ食べろよ。今日はお父さんの驕りだ。」

 我ながらわざとらしいと思った。それを知ってか目の前の娘は、少しだけ怪訝な顔をしながらさっきの約束を思い出したのかこんなふうに言う。

 「お父さん、ヤコこれよりもアイスが食べたい。」

 焦った僕は慌てて、ウェイトレスさんにメニューを持ってきてほしいと言ってその場を去らせた。

 「おい、こら!アイスって何だよ?」

 「アイスって言ったらアイスよ。私それ以外食べないから。」

 キーっとなりかけたそのタイミングに、先ほどのウェイトレスさんがメニューをすっと差し出してきた。

 「ごゆっくりどうぞ…。」

 ウェイトレスさんは、なにか物知り気な顔でそう言うと店の奥へと消えていく。僕はますますストレスがつのり、目の前の子供にこんなことを言ってしまった。

 「いい加減にしろ!とりあえず食うもの食べたら、家に帰れ!」

 言いながらもう後悔していた。家に帰れと言われるのがこの子にとって今どれだけ辛いひとことか…。けれど、目の前の子は今度は泣きださず、こう言った。

 「だったらいいよ…。覚悟はしてきたし。どっかその辺の通りでナンパ待ちして、お持ち帰りされてその人の家まで行くわ。」

 あちゃぁ…この子のほうが上手だ。。その時に思ったのはそれだけだった。

 そうして唐突に、この日から娘ができた。

銀の鈴

銀の鈴は嘘を見破る

 「シロさん、起きてください。そろそろ仕事に行く時間ですよ。」

 あれから1週間が過ぎた。ヤコの母親だと思い当たる水嶋姓の女性は、未だに見つからないでいる。

 「今日はフレックスギリギリに出るからいいんだよ。それよりもヤコ、お前学校には行かなくてもいいのかよ。」

 気持ちよく眠っているところを無理矢理に起こされた腹いせに言葉が出た。そうして、出してから後悔する…。

 「学校には事情を話して、しばらく休校にしてもらっています。義務教育だってそれくらいしてくれるんですよ。知らなかったんですか?大人の癖に。そんなだから、お母さんはあなたに何も言わないで私を独りで産んで、…苦労したんですよ。」

 ひとことにカチンとくると、数倍返しで返ってくる。それはこの一週間でなんとなく理解したことのひとつだ。

 「すみません、僕が悪かったです。…とりあえずあと1時間、眠りたいのでほおっておいてください。」

 まだ何か言いたげな気配はしていたが、僕は昨夜遅くまでネットゲームにはまっていた代償に、今はとてつもなく眠かった。するとそれを察してくれたのか、ヤコは何も言わずに自分の部屋へ行ってくれた。

 そもそも、ヤコに明け渡した部屋のほうが本当は僕の寝室なのだ。なのにあの子供は、私はベッドか布団じゃないと眠れない、だとか、お父さんだって認めないなら、知らない男の人と同じ部屋で眠るのはありえない、とか言うものだから、それは正論だなと納得してしまって僕はパソコンのある仕事部屋に布団をひいて寝ている。ヤコの来た日に急いで買いに行ってきたものだ。急ぎだったから目につく一番手ごろなもので済ませたら、寝るたんびに背中や腰が痛くなっていく。おかげで現場を休みがちになってしまってそれもストレスだ。

 そんなこんなで、その1時間が過ぎた。

 またヤコが来るかなと怯えながら、掛布団を頭まですっぽりと覆い隠し言い返す言葉をさがす。いかんせん、あれもこれも言いくるめられすぎだ。この問題の焦点は、ヤコの母親は誰かということ。水嶋なんて姓は覚えている中には誰もいない。加えてあの銀の鈴。あの鈴は、以前の仕事仲間に、僕が職場を去るときに渡したもの。当時は職場の上司と言い争って、その余波で周りのみんなに迷惑をかけたから、お詫びのつもりで渡した、と思う。信州の山奥にそういう手作りの作品をつくれる工房があって、確か仕事を辞める1週間くらい前に行って手作りしてきた…はずだ。確か広告の売り文句に、嘘を見破る銀の鈴、とあって、むかつく上司の嘘に騙されるなよという嫌味をこめて作って配ったような…気がする。

 あれを渡したメンバーの中に、水嶋という苗字はいなかったと思う。そうは言ってもうろ覚えなのであまり自信はない。

 そんなことを考えながら20分くらい布団の中にいて、しかしヤコは現れなかった。…こなければ気になるのが人情というやつだ。

 布団を出て、隣の部屋の様子を探るために扉の前に近づく。横へ引く引き戸で仕切られたヤコの部屋からは、荒い息遣いとうめくような声が、聞こえた気がした。

 「おい?ヤコ。どうしたヤコ?大丈夫か?」

 どこか具合が悪いんじゃないかと驚いて、僕は戸ごしに声をかけた。しかししばらく待っても返事がない。

 「おい、ヤコ!大丈夫か?ここ開けて入るぞ?いいか?」

 そう言って戸を開けようとしたその時に、引き戸はガラっと開いた。そこにはヤコが睨みつけるような形相で立っている。

 「女の子の部屋!どんな理由があろうとも、聞き耳立てたり覗いたりは禁止!」

 そう言うと今度は、戸がぴしゃっと音を立てて閉められた。僕は目をぱちくりとさせるしかない。

 なんだかよくわかんねえ。面倒だから仕事場へ行こう。

 そうしてその日は、遅れながらも仕事場へと向かうことになった。

職場

 「シロさん、ちょっとこっちこなさすぎじゃない。そんなだと他の人に代わってもらうことになるよ。」

 仕事場について、現場のPMをしている天草さんにつかまった。DBコンサルタントとして入った当初は、他に代わりがいないから是非とも頑張ってほしい、と言われていた気がするが、おそらくそれももう過去の話になっているんだろう。こういった現場ではよくあることだ。…と、そう自分に言い聞かせながら答える。

 「本当に申し訳ありません、天草さん。DBチームのリーダーには伝えておいたんですが、プライベートでちょっとだけ面倒な問題が起きてしまって。けれどもう少しで解決できるところまできてますんで、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんが、今少しだけご勘弁をお願いします。」

 そう答えると、天草さんの方はどうやら話を聞いていなかったのか怪訝な顔をしてこう付け加えた。

 「本当に?プライベートがどうとかって聞いてないけど。…けどまあ、あと少しで解決できそうならいいけどね。頑張ってね。」

 こりゃまずったかな。どうやら別の理由で話がとおっていたらしい。てことは、差し替えられる可能性が高いな。

 

 やっちゃったなと頭を掻きながら自分のデスクにつくと、すぐ後ろに座っていたDBチームのリーダーを担う松島さんが声をかけてきた。ヤコの件を話してから今日までの1週間、ほとんど顔を合わせるタイミングがなかったなぁ。

 「シロくん、こないだの話なんだけど、PMの天草さんて公私を分けられないと逆鱗にふれるから、設計資料制作の下調べをするために自社に戻って作業してから来てるみたいな話にしてあるから。もし何か言われたらうまいこと話し合わせといてね。」

 「あぁぁ、やっぱりかぁ。」

 「ん?その反応は…。そっか、短い間だったけどいろいろ助けてくれてありがとうね。」

 「早!切るの早すぎじゃないですか、松島さん?!なんとかなんないっすかねぇ?」

 「うーん…。無理。こっちにも飛び火してくるだろうから、とりあえず自分のことで精一杯。」

 「うわぁぁぁぁぁぁぁ。…けどまぁ、今の時期なら9月の案件探しに間に合うし、しょうがないか。」

 「うわ、シロさんて切り替え早!しかももう次の案件を考えてる!?さすが、腕一本で渡り歩いているフリーランス様は違うね。」

 と、いったやりとりがこの後30分ぐらい続いて、そんな話をしながらも二人して予定していた作業を10分前倒しで終わらせているのだから我ながら優秀だと思った。

 

 そうして結局、その日のうちには何のお咎めもなく、休んでいた間に滞っていた分の資料を作り終えると僕は仕事場を後にした。帰りの電車の中で、これですべきことがまた一つ増えたなと、そんなことを考えながら、窓から見える流れていく夜の街明かりを眺めて深くため息をつくので精いっぱいだったのを覚えている。

フリーランス

 家に帰りつくと、ヤコは自分の部屋から出てこようとせず、僕は朝のことをまだ怒っているのかなとそれくらいにしか思い至らないで、パソコンの電源を入れた。

 なんだかんだ言ったって、家に帰ってきてプライベートな問題を何とかしようとしているわけでもなく、ただ気晴らしにオンラインゲームにはまってそれが原因で仕事を休みがちになっているわけだ。真実をどこまで天草さんが見抜いていたとしても、こりゃダメでしょう。そんなふうにも思った。

 フリーランスを選択したのは、こういう自由を求めていたから、というわけじゃあなかったはず。そもそもの切欠は、あの小さな会社の社長の傲慢さと横暴に耐えかねてなわけだし、見返してやるって意気込みでがむしゃらになって頑張ったのは結果オーライの積み上げだ。5年も現場を渡り歩いていると、いい加減当初の熱気は薄れていく。そこからさらに3年も繰り返すと、どうしたものか何が起ころうが流れのままに的な気分になる。

 道理の通らない無理難題を言われて、言い返す言葉があるのにそれを吞み込むことがどうしたって苦手だった。案件の内容もよくわからずに金額だけみて取るだけ取ってくる営業。それに対してできませんを言えないのであれば、営業はいつまでも同じことを、技術者がつぶれるまで繰り返すだろう。大丈夫です、できますよと安請け合いして、ちゃちゃっとできればカッコいいことこの上ない。けれど現場の管理者にだんだんと技術的な話が通らない人が増えてきていた。できないことを無理でもできるようにしろと言われたり、前任者が気づかなかったか気づいてても隠し通したバグを、見つけて報告すると自分のせいにされた。そんなことが何度も繰り返されれば自然とどうでもいいやって気持ちにもなる。

 そんなことを考えながら、そういえばヤコは今日ごはんどうしたんだろうか?と少し心配になった。

 「おーい、ヤコ。夕飯はちゃんと食べたのか?」

 パソコンをいじりながら、少し大きな声で聞いてみる。

 「アイス買いに行って食べた。」

 そう言いながら、ヤコが部屋から出てきた。上下スエットの部屋着でそのまま裏のコンビニに行ったのか?と僕は心配になった。

 「…お前さ、外出するときは着替えろよ。」

 「なんで、面倒。」

 「面倒って、女子だろう?見た目は気にしろよ。」

 「そんなの気にしたら変なオジサンに声かけられて嫌な思いばっかりするから嫌。」

 「…そんなこと、あったのか?」

 ヤコの言葉に思った以上に真実味があったので、思わず聞いてみた。

 「うっさいなぁ。もう眠いんだから、寝るよ。ハクさんは?今日も遅くまで起きてるの?」

 短い間でわかったことだが、このハクさんと呼ぶときのヤコは、怒っている。この怒りは小さくてか細いが、ほおっておくと積み重なって一気に燃え上がって手に負えなくなる。

 「うーん、今日はもうやめにして、風呂入ってメシ作る。お前も起きてたら声かけるから、メシ食えたら食えよ。」

 「うん、わかった。…おやすみ、シロさん。」

 「はいよ。おやすみ、ヤコ。」

 その日の夕食には、アイス以外でヤコの食べられる、おかゆとおでんにした。おかゆには、かつお節が好きらしい。猫まんまかよ!って当初突っ込みを入れたら、それ以外で何個積んでいたかわからない分の怒りが一気にはじけて、台所と仕事部屋がおかゆまみれになった。今夜はうまいことクリアしたらしい。おでんに入っている玉子をおいしそうに食べながら、しばらくぶりの笑顔を見せたヤコは、食べ終えると僕にありがとうと言った。…はじめてのありがとうだった。

母と娘

 それからしばらくして、仕事が休みの日に、ヤコと二人で昼食に出た。ヤコは僕が口うるさく言うからか、だんだんと他のいろいろなものを食べられるようになってきていた。おかゆとおでんは、以前から食べられたものだったらしい。そのおかゆがお茶漬けになるのはすんなりといった。おでんのネタの玉子が食べられたので、目玉焼きはどうかと思ったら、最初はダメだった。間にゆで卵をはさみ、それに慣れたころに両面焼きの目玉焼きにしたらこれもまだダメで、それならと片面焼きに黄身を白く蒸しあげたものは、なんとか食べられるようになった。

 「なあ、そんなに好き嫌いがあって、お母さんに怒られたりしなかったのか?」

 「お母さん、それどころじゃなかったもの…。」

 いつものファミレスで、母親のことを思い出してなのか少し元気をなくしたヤコの顔を見て、僕は話題を変えようとこう言った。

 「なあ、小学校の給食はどうしていたんだ?」

 「友達に食べてもらってた。私は帰りにお店に寄ってアイス買って帰った。」

 「ずっと?」

 「うーん…うん。」

 どれだけ長いことそうしてきたんだろうかと、心配になった。だから中学生なのに小学生みたいなのかと、余計なことを言いそうになってあわてて話を変える。

 「ヤコさ、遊園地とか行ったことあるか?」

 「ううん、ない。」

 「じゃあ、行くか?」

 「え?!行きたい!」

 「よし、じゃあ行こう!」

 「うん!!いつ?!」

 「今から。食べて帰ったら行く準備するぞ!あと、着替えとか必要なものも買いに行くぞ!」

 「わかった!!じゃあ、早く食べよう!」

 ものすごい嬉しそうな笑顔だった。驚くくらいに。そう感じたら何がどうしたものなのか、突然涙がわいてきた。僕はあわててトイレに走った。

 これまでのヤコの話から、ヤコの母親は生活に一生懸命でほぼ育児放棄に近い状況だったのかもしれない。それだけ真面目に一生懸命に、独りで全部を抱え込んで生活していこうとしていたのだろう。母は母でいろいろなことを我慢して頑張り、そうしてヤコもまた自分なりに頑張りながら我慢しつづけている。うちに来てもそれはわかる。ときどき機嫌の悪いこともあるが、ほとんどの場合は僕の邪魔にならないようにと、静かにおとなしく自分ごとをしている。ときにはこちらから声をかけないと、そこにいることさえも気がつかせないくらいにひっそりといることがある。僕なんかはどの現場に行っても、どんな環境に行っても、存在感を出しまくって精一杯にここにいるぞオーラを出しまくっているとよく言われるので、ヤコに会わなかったらそれがなんでなのか、ずっとわからないでいただろう。未だにそれがなんでなのかの、そのすべてはわからないとしても、わからないままこちらの価値観でそれはダメだとかは言いたくないと思うようになっていた。

 ヤコに会わずに、一緒に暮らすこともなく、それでいてヤコのいるような家庭を目にすることがあったら、たぶんとってつけたように育児放棄を責め立てて、そうして好き嫌いを嫌悪していたかもしれない。

 そんなことをして、お他人事の自分はそれで良いことをした気になってスッキリできるかもしれない。何も知らないでいたら。けれど知ってしまえばそこにも、誠実さはある。真面目に清く正しく生きようとしている。それでいてまかないきれないから、我慢して耐えているんだ。我慢できなきゃお金を楽に稼ぐ方法なんていくらでもある。子供だって面倒と思えば、外面だけよくしてひどい目にあわせている奴のニュースがときおり流れるじゃないか。

 「…シロさん?起きてる?」

 「ん、ああ。えっと…。」

 「どうしたの?トイレから帰ってきてぼーっとしてる。」

 「なんでもないよ。遊園地どこがいいかなって考えてたんです。シロさんも遊園地 久しぶりだから。」

 「ホント?」

 「うん、ホント。」

 

遊園地

 「う、わ~!」

 僕たちは昼過ぎに家を出て、近場の遊園地へと向かった。飛び込みで借りたレンタカーは思いのほか調子よくて、ナビに遊園地の場所を尋ねたら家から1時間ほどで着く場所に見つけてくれた。車の中でヤコはずーっと驚きっぱなしだった。

 「うわ~!シロさん、あれ、ビルが高い!」

 「いやいや、あれでも小さい方のビルだから。水曜日の夕方になると隣のビルと合体してもっと大きくなるよ。」

 「わ~!シロさん、あそこ大きな河がある!今からあの橋を渡るの?」

 「いやいや、あの橋は渡るの大変だよ。渡ろうとするとグワーッと真ん中から上がっちゃうから、タイミングよく行かないと危険なんだ。」

 「きゃー!シロさん!犬がいる犬!おっきい!!」

 「あれは犬じゃなくてシロクマ。最近はやりのペットなんだよ。」

 運転しながらだと受け応えがどうしても適当になる。嘘八百の返事に、けれどヤコは終始嬉しそうだった。

 「ねえねえ、シロさん!あっちの猫に見えるのは?」

 「うーん、たぶんこの辺りだと、猫に見えるのはアレじゃないかな?」

 「アレ?…ああ!あれってアレか!。」

 そうこうしているうちに、目的の遊園地についた。久々の運転にとんでもなく神経をすり減らした僕は、車を駐車場に入れると、そのまましばらく休憩させてくれるようヤコに懇願した。ヤコはそれを快諾し、少し外を見てきていいかと尋ねたので、僕はそれを了承した。

 「あんまり遠くまではダメだよ。少ししたら僕も行くから。」

 「はーい。ちょっと入口まで行って見てくる。」

 そう言うとヤコは、車のドアを開けて勢いよく飛び出し、あっという間に小さくなっていった。結構な広さの駐車場だと、僕はそれで気がついた。車の数が少なかったからあまり感じなかったが、ヤコは走る距離の分に比例するかのように小粒になっていく。

 「お子様だねぇ…。」

 そう言って笑って、僕も車を降りた。そのときそこで見上げた空は、スッキリと澄み渡っていた。

空と物語

青い扉と銀の鈴

心に残る人

心に残る人

君は心に刺さるから、忘れ難くて…。

心に残る人
笑顔で思い出す君との思い出

笑顔で思い出す君との思い出

 誰の心にもたぶん一人くらいは、心に残る人というものがある。それぞれに理由があって残っているんだろうが、それにしたってその残り方はないよなっていう、そんな人の話を聞いた。話の出もとは、高校時代に同じ部活で仲の良かった野郎だ。月に一度会うか会わないかといった付き合いなのだが、それももう5年も続いている。よく飽きないなと自分で自分をほめてやりたいと思った。

 それで、その悔しい残り方をした人の話なんだが、これが、ねぇ。話してしまえば、ああ確かにその思い出の残り方は嫌だなと言うにちがいないんだろうが、そのせいでその話さえもしづらい。なんでかって?だって言われた側に立って考えると、言われるのは嫌じゃん?お前あいつにこれこれこんなふうだったって記憶されてるぞ!みたいなことを直接言われたとしたら俺は嫌だし、ましてや自分の知らないところで勝手に話されて笑われるのも嫌だもんね。

 そんなことを考えながらの帰り道、電車が止まったのでホームに降りた。どこかから美味そうな蕎麦の匂いがする。

 「あれ?北沢じゃない?どうしたのこんなところで。」

 かけられた声に思わず振り向いてしまうと、そこには例の残念な思い出の君がいた。驚いた偶然だ。

機械オンチと方向オンチ足すと最強

機械オンチと方向オンチ足すと最強

 昨日まで帰っていた実家があるのは、この街から百何キロか向こう。そして月一で会っている野郎もその街にいる。俺達の高校はその街から少し離れた都市部にあって、その残念さんは、その高校での思い出話だ。なのでまさかこんなところでバッタリ再会するとか、思ってもみなかった。

 「どうしたの?黙りこんで。ていうかさ、あんたココらへん詳しい?もしそうなら案内してほしいんだけど。」

 どうしようかと考えるところまで俺はまだ追いついていない。なにせびっくりしすぎて、未だ一言も返せていない現状だ。

 「ちょちょちょ!ほら!区民会館って所まで案内して。ぼーっとしてないでさ!」

 強引に手を引っ張られて、ホームを連れて行かれる。仕事帰りの人で賑わう少しだけ大きな駅だ。引かれながらドンと、すれ違う人と肩がぶつかったりもした。

 「きたざわ!どんくさいよ。さっさと用事済ませて宿に行きたいんだから。ほら、急いで」

 容赦無いひっぱりが、その言葉でピタッととまった。見ると片手で携帯を出して、メールチェックをはじめている。

 「文京区・・・これなんて読むんだろう?ね、きたざわ、これ?」

 後楽と書かれていた。

 「住所あるなら、スマホでマップ開けよ。」

 ようやく出た言葉が、それだった。

 「好かん。スマホとかでっかすぎてしゃべるのも大変だし!」

 「・・・ああ、そうだったな。お前、機械オンチのまんまなんだな。」

 「オンチと違う!体質が合わないだけ!こう見えてもテレビとビデオの配線なら得意なんだから。」

 「・・・今時、配線する? 無線でつながんだろが。」

 「好かん!ケーブル繋いだほうが音とか画質とかいいもん!」

 かわんねえなぁ。と、思った。5年会ってないのにあの頃のまんまの会話がある。俺は少し笑って、そいつの携帯を覗きこんだ。

 「えーと、文京区後楽の・・・」

 「きたざわ!スマホ使えるの?!」

 「どういう意味だよ・・・。今時使えないほうが珍しいってのに。」

 「いや、だって、きたざわってあたしと同じくらいの成績だったじゃん。なのにスマホ使えるんだ・・・」

 「おいおい、なんだその『だったら私も頑張れば使えるかも』みたいな目は? 」

 「だって、きたざわにできるんだよ!だったら私にだってできないわけないじゃん!」

 そうなんだよな、この馬鹿。いや、成績どっこいどっこいだからそう言ったら俺も馬鹿なんだけど。

 

心残りと言わば言え。

心残りと言わば言え。

「あー!!時間があと十分しかない!! ほら、きたざわ、早く案内してー!」

 「なつき、よく聞け。ここに行くならもうひとつ前の駅からだ。」

 「えー!?」

 「ここからだと、歩いて20分はかかる。電車でひと駅戻れば、歩く時間を入れても10分ちょいだ。」

 「それでも遅刻じゃない!!どうしよ、ねえ、どうしよ!」

 おろおろと慌てるさまが本当に残念さんだ。これで口を開かなけりゃ、学年で1,2を争う見た目だったのにな。

 「なつき!とりあえず先方に電話して、少し遅れるって。理由は・・・電車の遅れでって言っとけ。」

 「なるほど!さすがきたざわ!」

 ピポパポっとガラケーの電子音がした。なつき、この残念さんの名前なんだが、フルネームは 結城 なつき という。ちなみに俺の名前は 北沢 大成。実は俺達、幼なじみだ。保育園から同じ学校に通っていたと思う。クラスも同じクラス率高かった気がする。昔っからこんな感じで、ひとりでひとしきり大騒ぎして、まわりにいるみんなを巻き込みながら生きてきた奴だ。

 「よかった。病院大丈夫だって。」

 「は?」

 「だから、病院にね、母ちゃんのお見舞いに来たんだわ。6時まで面会できますよって言われてたから焦ったよ。」

 「どっか悪いのか?おばさん」

 「いやいやいや、大したことない。ちょこっと腰が痛いって検査受けたらヘルニアで、昨日かな、手術したところ。」

 「お前、それけっこう大したことだぞ。」

 「父ちゃんもやってるし、うちだと大したことないになるみたい。」

 はぁっとため息がでた。

 「ねえ、きたざわ。ここで電車待ってたらくる?」

 「あ、ホーム向こうだ。ほら、行くぞ。」

 「うん!」

 てくてくと歩くなつきの横顔を見て、俺はなんだか懐かしい気持ちがいっぱいにわいてきた。手に持った荷物をぶんぶんと振り回して、なにか聞き取れないくらいの小さい声で歌をうたっている。まったく、かわんねえなあ。

 「そだ、きたざわ。私来月結婚するよ。式くる?」

 「結婚って、また大仰なことをさらっと言ったな。普通ははがきとかで連絡してくるもんじゃねえのかよ?!」

 「だって私、きたざわの連絡先しらないもん。」

 「うちの母ちゃんに聞けばいいだろ!?」

 「聞いたらさ、なんか難しい顔されちゃって。あの子が残念がるから、呼ばないでやってって言われちゃってさ。」

 「うちの母ちゃん何をどう思ってんだ?!」

 なんだかおかしなことになっているらしい。まあ、毎度のことだが。

 

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紫 の 雲 靉靆 と 棚引き

いつかどこかで

夢のまたその先へ

喧騒と香り

「そんな難しいことを言ってねえだろう!」

 

 大きな怒声が突然に店内に響き渡った。

 昼過ぎてお茶の時間より少し前の、ファミレスでのことだ。

 

「難しいか難しくないか、決めるのはあんたか?! 俺ら技術者が言う難しいの意味もわかんないくせに何言ってんだ!」

 

 ウェイトレスが声のした方を見ながら僕の席へとやってきた。トレーに載せた水入りのグラスを置くと僕をようやっと見て言った。

 

「すみません、騒がしくて。」

 

「いいえ、大丈夫。慣れてますから。」

 

 え?と、僕の返事に少し戸惑いながら、ご注文がお決まりになりましたらボタンでお呼びくださいとそう言ってウェイトレスの娘は厨房の方へと帰っていった。 店内に他の客は見えない。 くの字型をしているホールの、たぶん逆側の先端あたりに声の主たちはいるのだろう。

 

「だからおかしいって!なんでそうなるんだよ?! よそはよそ、うちはうちだろ! 前のトラブルの時にあんたそう言って自分の責任をごまかしたじゃないか!」

 

 声を聞いた限りでは、歳の頃はおそらく20代半ばか後半。 先ほどの言い分から何かの技術者なのだろう。 昔ならまだ駆け出しの頃合いで、言い分はもう一人前といった感じがする。

 

「前の時は俺は俺でけつをもったろう! お前らに責任をおっかぶせたりしたか?! 自分で何とかできるときはこんな頭下げてまで頼まねえよ! 俺じゃあどうにもできねえから、お願いしますってこうして頭下げてるんじゃねえか!」

 

 こっちの声は、僕ぐらいだろうか? もうすぐ50歳になるかならないか。 人生の折り返しを過ぎて、一人前に仕事しなきゃいけないって社会的責任感や世間的な建前やらが気になる頃合いだろうに、若い技術者とほぼ同じ目線で会話をしている。 すごいな、と思った。

 

 

サイフォンの音とシルバーの感触

「お客様、ご注文はお決まりですか?」

 

 メニューを開きっぱなしであれこれと考えていたのを、どうやら注文で悩んでいると思い違いされたようだ。 10代のアルバイトだろう娘が、トレーを片手に僕の席へと来て尋ねた。

 

「ああ、もう少し待って。 あの騒ぎに気を取られちゃって、なかなか選べないんだ。」

 

「奥の3名様のお席ですね。 あの人たち、毎週これくらいの時間にやってきていつも言い合いするんです。 店長とかマネージャがちょうどいないから、私たちも手が出せないんですよ。」

 

「わはは、それは困ったね。 厨房にも社員さんとかいないの?」

 

「残念ですがいません。 厨房の人たちはこの時間は休憩ですから、だいたい外へパチンコしにいくか、休憩室で仮眠とってますよ。」

 

「へー、そうなんだ。 大変だね。」

 

「けどまあ、私も一応ここの社員ですから。 いざとなったらご対応します。 うるさすぎるようでしたら言ってくださいね。」

 

「あ、ああ。 その時はお願いします。」

 

 そう言って話がすむと、ウェイトレス姿の娘さんはまた厨房の奥へと帰っていった。 10代のアルバイトだろうと思い誤っていた僕は、彼女の去った後でペコリと頭を下げ詫びた。

 

 

温めたミルクとバターを塗ったブレッド

「だーかーらー! そこをそんなふうに話まとめてくるから! だからこんなことになるんでしょが! おかしいと思いません? 社長?!」

 

 奥の方からまた、さっきの若い方の声が鳴り響いてきた。 この声の主もひょっとすると20代ではなく、見たら僕と変わりない年齢なのかもしれない。 そう思ったらもうひとりの声の主も、あちらは案外20代の若者かもしれない。

 僕はそんな勝手な想像で少し吹き出して笑ってしまった。

 

「お決まりですか?」

 

 すかさず、ウェイトレスが顔を出して僕の方を見る。 どうやらよほど暇だと見える。 ぱちくりっとした瞳をくりくりさせて、トレーを片手ににじり寄ってくる。

 

「ま、まだ。 まってまって。 ちょっと、ツボに入っちゃって。」

 

 僕はさっきの想像と、ウェイトレスさんのにじり寄り方が、おかしな具合にミックスされて、笑いをこらえることができなくなった。 くっくっくっと、抑えても笑いがわき起こってくる。 苦しくてつい胸を抑えて咳き込んでしまった。

 

「お客さん? 大丈夫ですか? お客さん??」

 

 ガタガタっと奥の方から音が聞こえてくる。 そうして「どうした!どうした?」っと、男たちの怒ったような声が聞こえる。 それでも笑いがとまらずに押し殺している僕は、胸と腹が痛くて動けない。そのままシートに転がった。 ウェイトレスさんが駆け寄って僕の背中をさすりはじめる。 男たちの声と、分厚い手が、僕の頬をパチンと叩くのが感じられた。 薄目をあけて見ると、驚いたことに男たちは皆20代から30代のようだ。 ウェイトレスさんと並んでいるのを見ると、ウェイトレスさんもかわらない年頃に見えた。 それさえも、おかしかった。

 

「私、救急車呼んできます!」

 

 そう聞こえたウェイトレスさんの声に、これはまずいと、僕は体を起こした。

 

「おお! 気がついたみたいだぞ!」

 

男たちの喜びの声が、店内を渦巻いた。

 

「本当ですか? 大丈夫ですか? お客さん?」

 

ウェイトレスさんがまた駆け寄ってきて、僕の顔色を確かめるようにまじまじと見つめてきた。

 

「だ、大丈夫です。 それよりも・・・」

 

「それよりも?」

 

 皆、息を呑んで僕の言葉を待っている。

 

「コホン。 すみません、少し調子が悪くて。 お騒がせしました。 ありがとうございます。」

 

 僕は席を立って、駆け寄ってくれた男たちに感謝をこめて頭を下げた。 そうして次に、ウェイトレスさんに頭を下げてこう言った。

 

「背中をありがとう。 おかげで大事なくてすみました。」

 

「いいえ、そんなこと。 大事なくてよかったです。」

 

 こうして、よかったよかったと男たちは自分たちの席へと戻っていった。 ウェイトレスさんは新しい水を持ってきてくれた。

 

「ほんと、無事でよかったです。 ありがとうございました。」

 

「いいえこちらこそ。 ありがとうございました。」

 

 なんだか色々と思い込みや思い違いでコミュニケーションが弾んだある日の出来事。 そんな感じだ。

 大きな窓から見上げた空には、いつかどこかで見たような、大きな夏の雲がポッカリとたなびいている。 大事ない日常。