1. Kiss したいと思っても言えない

 21世紀がはじまるより昔に、僕はあなたに恋をした。落ちて溺れて焦がれながら、Kiss したいと言い出せない、そんな恋を。

 季節は夏だったと思う。思い出に残る空がとても深く青かったのと、その青を背負って真っ白な雲が積み上がっていたのと、そしてあの土砂降りの雨を忘れていないから。あの日あなたが揺らいでいなかったなら、そのまま溺れていつか愛するようになっていただろうか。それでもあの日、僕はまだ恋でしかない想いを胸に焦がし、愛せずにあなたの前から立ち去った。それを思い出すと、ほんの少しばかり胸の奥が痛く感じるんだ。

 

 はじめての出逢いは、何のことはないアルバイト先が同じところで、あなたは僕の先輩で、僕はただのフリーターだった。ウェイターの仕事を教えてもらうことになって、いろいろ聞いたり話したり。あなたは一回り僕より背が低く、なのにいつも偉そうに構えて、くだらないことを僕が言えばとたんにゴツンとグーで小突く。…少しだけ苦手な人だと思ったのは知らないだろうな。

 そうして半年が過ぎた頃、バイト仲間で飲み会をする日があった。

 

 毎日バイトに出ていてけれど、あんなに仲間がいるとは知らなかったな。デシャップに割り当てられた僕は、ホールにいるみんなの顔を知っているつもりでいたけれど、シフトが合わなかった人が多かったのかな、あなたと仲よさ気なあの娘に気が付かずに半年も過ごしていたっけ。飲み会の席であなたと僕の間に座ったその娘は、僕が冗談を言うとコロコロと笑って楽しそうにしていた。それを見ながらあなたのゲンコツが飛んでくるのをよけきれなくて、そうしてそれを見てまたあの娘が笑うんだ。はじめて感じた。嬉しかった。

 その飲み会の帰り道に、あなたは先に帰ると言い僕とあの娘もそれにならって、同じ電車で同じ方角、最初に降りたのはあの娘で、次に降りる僕の駅までの間、あなたは僕にこんなことを言いはじめた。

 

 「仲良くなってよかったね。どうせなら付き合っちゃえば?」

 

 キョトンとした顔を僕はしていたと思う。

 

 「何言ってるんですか先輩。付き合うなんてできっこないでしょ、僕貧乏なんだから。」

 「馬鹿ね、そんなの関係ないわよ。二人して楽しそうだったじゃない。さっきだって駅に降りてからずっとあなたのこと見てたわよ。」

 「無理無理無理。現実的じゃないでしょ。貧乏すぎて毎日バイトのシフト入ってんすよ。デートのひとつもできないってのに。」

 「はぁ…。なさけない。」

 「なんと言われようと無理なものは無理です。それにそもそも、好きとかそういう気持ちないっすから。」

 「…そうなの?本当に?」

 

 そう言って窓の外を眺めるあなたの、少し微笑んだような横顔を見て、その時僕は落ちたんだと思う、恋というやつに。Kiss をしたいなと素直に思って、けれどそれを言い出せない、そんな恋に落ちたんだ。

 

 「あ、ほら。もう着くよ。降りるんでしょ次で。」

 

 電車が駅について、ホームに降りる僕の背中に、あなたが言ったどうでもない一言が今も鮮明に耳の奥に蘇る。

 

 「また明日ね。同じシフトだから、遅刻したらこれだからね。」

 

 つきだしたこぶしが可愛らしく小さくて、僕は頭をかいて笑っていた。何か言い返そうにも言葉がうまく見つからなくて、笑うしかなかった。

 

 「返事は?」

 

 「はい。」と、小さく答えたと思う。けれどその時電車の扉が閉まって、そうしてあなたはその先の駅に。僕は降りたホームの上で走り去っていく電車を眺めながら、あなたの笑顔を思い出して胸が暖かくなるのを感じていた。

 

 こうして僕は恋に落ちた。けれどあなたはそれを知らない。