4. 告白は、恋をしていないとできない

 次の日、バイト先であなたと会う。一日を精一杯に仕事に費やして、昨日しっかりと眠れたせいかいつもより手際よく仕事がおわり、あなたと一緒に帰る時間になった。

 いつもと同じように、店を出る。夜の8時を回った頃で、駅までの道は人影も多く、僕らはいつもどおりの会話をしていた。

 

 「なんか今日は調子良かったよね。悩みごと解決した?」

 「いや、悩みってほどのものじゃなかったみたいで。」

 「そうなの?それにしちゃ、昨日とかほとんどゾンビみたいだったよ。何言っても『はいぃぃ』だし、ゲンコツしても『はうぅぅ』だったし。」

 

 はいぃぃはともかく、はうぅぅは覚えがない。けれどあなたが言うならそうだったんだろうと思って、つい謝ってしまった。

 

 「すみません心配かけて。けど、たぶんもう大丈夫ですんで。」

 

 そうして僕らは電車に乗った。都心から離れていく下りの電車は、この時間とても混んでいる。

 

 「相変わらずだなぁ…。ちょっと、手どこ触ってんのよ!」

 

 混みすぎてつい、かばんを下げた手があなたの足に触れた。

 

 「すみません、今どかしますから、こんなところでゲンコツは勘弁です。」

 

 もう!っと言って、あなたはぷいっと顔をずらす。そうした瞬間に髪の毛がふわっと僕の鼻先をかすめて、僕はクラクラっと目眩に襲われたように足がもつれた。

 

 「ちょ、ちょっと!やっぱりまだ具合が悪いんじゃないの?一回駅に降りる?」

 「あ、いや…。大丈夫…で。」

 

 大丈夫と言ってはみたが結局、髪の香りに刺激されて、Kiss したい気持ちが一気に膨れ上がって、僕はその場でよろけつづけた。

 

 「大丈夫なんかじゃないじゃない!ほら、降りるよ。もうすぐだから、しっかりして。」

 

 あなたの手が、心配そうに僕の腕をつかむ。近づく顔に、ピンク色した唇。それを間近で見て、僕は意識が遠くなるのを感じた。それをゴツンとゲンコツが引き起こした。

 電車がホームについて、僕はあなたに手を引かれて駅へと降りた。始発駅からふたつ目のその駅は、この時間の利用客が少ないのか静かだった。

 

 「あっちのベンチで休みましょ。やっぱり今日頑張りすぎたんでしょ。まったく、自己管理がなってないなぁ。」

 

 ベンチに腰掛け、僕はあなたと並んでいた。座ると頭の高さが変わらなくなる。不思議だなと思いながらあなたを見ると、背筋がピンと伸びて姿勢よく座っている。僕はといえば、背中を丸めていた。

 そんなどうでも良いことを思いながら、するとあなたが言った。

 

 「まあ、ちょうど良かった。せっかくだし、話したいことがあったんだ。」

 

 なんだろうと、少しだけ朦朧とする頭で次の言葉をまつ。

 

 「あのね、実は私…。」

 「え?あ、えっと。」

 

 まさかと思い、僕はどぎまぎした。

 

 「何うろたえてんのよ。…ち、違うわよ、そうじゃなくて…。」

 「はい。」

 

 何がはいなんだか?と自分で自分の言葉に不安を覚えながら、あなたの次の言葉を待った。

 

 「…あのね、私、来月に入ったら実家に戻ることに決めたの。だから、一応世話をしたわけだし伝えておこうと思ってね。」

 「え?」

 

 よくわからなかった。

 

 「うちの実家ね、田舎じゃあそこそこに有名なチェーン店開いてて、私はそこの箱入り娘なの。でもね、ここんところどうもお客さんの入りが悪いらしくて、看板娘がいればもう一度お客を呼び戻せるだろうってお父さんが言い出してね…。」

 

 なんだその理由は?父親ってそんな頭悪いものなのか?

 

 「けどまあ、本音はきっと20歳過ぎても一人暮らししてバイトしている娘が心配になったってとこかな。学校も辞めちゃったし、心配されるのはしかたないかなって。」

 「け、けど…。」

 

 けどと言ってみたけれど、続ける言葉が見つからない。

 

 「ま、そんなわけで、弟分のあんたにはちゃんと言っとかないと、その日が来てからだと泣き出すかもしれないでしょ。…そんなわけ。」

 

 頭の中が白くなりはじめていた。告白はどうしようかとそれで一杯いっぱいなところに、その話は出会い頭の事故ぐらいの衝撃だ。

 

 「あーあ、こっちでいい人でも見つけられてたらね。そしたらなんと言われても帰ろうなんて思わなかったのに。」

 

 あなたのその一言が、僕をドキンとさせた。いい人って…。いや、そりゃ最初から弟分扱いされているのはわかっていたけど、でも…。

 

 「ね、そういえばあの娘と連絡はとってるの?」

 「え?」

 「とぼけないでよ。なんか昨日とかずいぶんとウキウキして連絡してきてたわよ。長電話してて寝不足だったんでしょ。」

 

 何を言われているのか心当たりがない。

 

 「しっかりと大事にしてあげるのよ。貧乏だってできることはある!」

 「ちょ、ちょっと待ってください。僕はそんな…。」

 

 言いながら、僕は気づいてしまった。あなたは僕に、僕と同じように恋はしていないんだ、と。

 

 「ほら、元気になった?電車来たわよ。乗れそう?」

 

 そこから家までの道中、僕はあまり覚えていない。ただ、なんとなくわかったあなたの気持ちと、それとは別に垣間見えるウキウキした感情。それが僕への想いではなくて、なんだろうこう刺激を求めた言葉みたいなものが感じ取れて、気がつけばこじれた恋心は、なんだかよくわからないモヤモヤっとした想いに変わっていた。なにかこうスッキリしない、あてどなく投げられている撒き餌のようにも思えて、とたんに僕はわけがわからなくなっていった。

 

 翌日、はじめてバイトを休んだ。そうしてそれから何日も続けて。三日目の夕方、大雨の外に出た。飲まず食わずに耐え切れなくなってコンビニへ行こうと思い出たのだが、そのせいで風邪を引いた。そうしてこじらせてまた休みがかさんだ。

 

 一週間がすぎる頃、バイト先の店長から、病院へ行き診断書をもらってくるようにと言われた。僕は言われたとおりに診断書をとり、それを郵送してまた力なく過ごしていた。

 

 そうして気がつけば一ヶ月が過ぎ、仕事場に復帰したはいいけれど、それきりあなたと会うことはなくなってしまった。

 

 告白しようにも、相手にその気がないと気づいてしまうと、どうにもできないとわかったのはこれが最初。それから暫くして、次の恋がはじまるのだけれど、片恋は苦しいばかりでなかなかその循環から抜け出せないままだった。

 恋したら苦しい。そう思い始めていた20代の半ばに、あのことがなければきっと今でも恋も愛も知らずにいただろうか。

 

 とりあえず、僕の初恋は、こんなにも遅くこんなにも未熟で、そしてこんなにも胸に残ったできごとだった。

3. こじらせた恋を治すため

 言ってしまえば、僕は恋を知らないでこれまで生きてきた。物心着くまえに両親は傍にいなくて、おじいさんとおばあさんが僕を高校まで通わせてくれた。高校を出てすぐに就職した働き口は、おじいさんの昔務めていた職場で、そこで僕は召使のように社長にこき使われた。会社の事務所に泊まり込み、夜中まで書類整理。昼は社長が行く先へついてまわり、よくわからない会話にうまく話も合わせられず、苦痛でしかない毎日を淡々と過ごしていた。職場には男しかいない。運送会社だと思うけど、時々社長に言われて廃品の回収なんかも行かされた。給料は雀の涙ほどで、おじいさんとおばあさんにそのまま預けて、代わりに弁当と朝夕の食事代をもらいながら、休みなく毎日を繰り返していた。

 一年くらいそうして過ごした頃、その会社が倒産した。社長は家族と街から出ていき、そうして僕はおじいさんとおばあさんの家に戻ることになった。おじいさんは「すまない」と涙ながらに僕に謝り、これまで預けてきたお金の入った通帳を出して、僕にこう言った。

 

 「お前も、この街を出ていかなきゃな。もう、私やばあさんにしてやれることはあんまりない。むしろこの先お前に迷惑をかけてしまうかもしれん。だから、これを持って都会へ出ろ。都会ならなんとか、男一人食べていけるだろうから。」

 

 通帳に中には2百万円と少し入っていた。たぶん、この一年間ためた金額よりも多いと思った。なのでそう言うと

 

 「お前のためと思って、前に世話になった会社を紹介してやったのに、こんな結果になって私にはどう責任をとったらいいかもわからん。なので、その詫びだ。」

 

 なんだかとても悲しくなったのを覚えている。

 

 「私たちのことは、心配しないで。なにかあったら帰ってきてもいいから。けれど、このままここにいてあなたの人生を私たちのために使うようになっては駄目。そんな真似は、娘のためにもさせられないの。」

 

 ばあちゃんが娘と言ったのを聞いて、母さんのことなんだろうと思った。そうして何か聞いてはいけないことが、おじいさんとおばあさんと、娘との間にあったんだろうなって勝手に思って、聞けなかった。

 

 「ばあちゃん、じいさん。このお金は全部は貰えません。これまで育ててもらった恩もあるし、俺を高校まで行かせるのに大分苦労させたろう。だから、少しだけでいいです。」

 

 じいさんが頭を下げながら、首を左右にプルプルと振るのが辛かった。泣いているようだった。ばあさんも、涙流しながら口を抑えている。

 

 「住むところを見つけて、働くところを探して見つかったら、それにかかった分だけ貰いに来る。だからこれで体に良いものを買ってよ。お願いします。」

 

 そうして交通費と数日分の食費に3万円をもらうと、僕は東京へと向かった。僕らの街からおおよそ2時間の、大都会だった。

 住むところを探す前に働き口をと思って、コンビニで就職情報誌を買った。するとそこに寮付きの案内があったので、さっそく公衆電話から応募の電話。するするっと決まって、次の週から働くことになった。ファミリーレストランのホールスタッフということだったが、店長候補のため他にもいろいろと覚えなきゃいけないらしい。そのことを帰っておじいさんに話すと、おじいさんはまた涙を流して喜んで言った。

 

 「あの娘がお前のことを見守っているんだろうな。だから、な、無理はするなよ。無理して体壊したら元も子もない。」

 「そうよ、間違っても誰かのためになんて無理をしたら駄目よ。そんなところを受け継がなくてもいいんだからお前は。幸せになるんだよ。」

 

 そうして仕事が始まる翌週まで、おじいさんとおばあさんと過ごした。これまで世話になった恩返しに、風呂焚きや食後の茶碗洗いは全部引き受けた。すると「ありがとう」とおばあさんは笑顔で喜んでくれて、おじいさんは「そんなにしなくてもいいから」と、喜びながらも心配していた。けれどそうしないと何か申し訳ないような気がして、そうして翌週がやってきた。

 

 結局のところ、住むにも働くにもお金はほとんど必要がなくなったので、通帳はおじいさんに預けた。おじいさんとおばあさんは最後まで渡そうとしていたが、僕にはそれを受け取ることができなかった。受け取ってしまうとなんか、二度と会えないような、そんな気がしていたからだ。

 

 そうして都会で最初の職場に働きはじめ、おじいさんとおばあさんの忠告を忘れて、同僚や上司のために精一杯働いた。するとどういうわけか、お金も貯まらない時間にも余裕がないと、そんな生活になっていきついに一年が過ぎた頃、体を壊して仕事を休むことになった。医者の話では、慢性的な過労と睡眠不足とのことだった。そうして3ヶ月過ぎても回復の様子がみられないということになり、仕事を失った。住むところもついでに。

 

 住むところを失くすその日が来て、上司のそのまた上司にあたる人が僕に挨拶に来てくれた。その人が次の仕事にあてはあるのかと聞くので、僕はありませんと素直に答えた。すると、その人が知り合いを紹介してくれると言った。それが今のバイト先。過労で倒れるほどの頑張りは認めているとその人は言った。僕ははあ、と返事をして、するとその人はこうも言った。

 

 「頑張るなら、自分が壊れないようにする自己管理も必要だ。言われるがままにはいはいと素直に引き受けてばかりでは、また同じことを繰り返すよ。」

 

 言われていることの意味がよくわからなかった。けれど、同じことをおじいさんとおばあさんにも言われたなと、思い出した。

 

 「ありがとうございます。」

 

 そう応えて、僕は1年暮らした寮を後にした。田舎のおじいさんとおばあさんにそのことを知らせると、とても心配されて帰ってくるかと聞かれた。けれど、帰ればまた前と同じことでおじいさんおばあさんを悩ませてしまうと、そう思ったので僕は「次の働き先はもう決まっているんだ。」と告げて、それ以上は言わなかった。

 ほんの少しだけ残った蓄えを、新しいアパートに使いきり、僕は新しい働き先へと移っていった。

 

 こんなふうだったから、僕は恋を知らない。だから、あなたへの想いをどう伝えたら良いかわからずに、こじらせてしまったんだと思う。

 

 こじらせた風邪は、安静にするか病院で点滴を打てば回復へと向かう。だから同じように、僕は安静に過ごしたんだけど、どうも恋はそれじゃあ治らないんだとわかりはじめていた。だから点滴は、どうしたら良いんだろうかと、あれこれ考えて、本を読んで、心が嬉しくなることがきっと点滴と同じような効果があるだろうとそういうふうに考えて、そうして3日ぐらいを使った。

 嬉しくなることをあれこれいろいろ考えてみたら、やっぱり Kiss したいと思って、それをするためにはどうしたらいいかを、中学生くらいの頃に同級生と話した言葉まで思い出して考えた。

 やっぱり、最初は告白からなんだろうなと。そう答えを出してようやくぐっすりと眠れた。ひさびさに夢もみた。

2. 落ちたら溺れるまで3秒とかからない

 次の日から、バイトの時間が僕にはとても居心地の良いような悪いような、よくわからないふわふわとしたものになっていった。

 とにかく、あなたが視界に入る度に、あの Kiss したいと思った想いが蘇る。それじゃあいけないと思いながら、何度冷凍庫に頭を突っ込んで調理場のシェフから怒鳴られたろうか。そんな僕の気持ちを知らないあなたは、僕の奇行を見る度に小突き、そうして僕はさらに奇行が増えていく。その繰り返しだった。

 最初の数日はそんな感じで奇行になり、それから今度はうつになった。

 あなたが見えないと、今度は不安になっていて、そうして見えるとなぜか落ち込んでいた。なんでそうなるのかわからないものだから困りもので、特にバイトが終わってあなたと離れると、際限なく自分の駄目なところばかりが頭に浮かんで、なんとかしなきゃと奮い立ってみたり、かと思えば僕にはどうすることもできないと落ち込んでみたり、その繰り返しで夜も眠れなくなっていった。

 

 「おい!最近たるんでるよ。どうしたの?何か心配事でもあるの?」

 

 まさか、Kiss したいだなんて言い出せないじゃないか。だから僕はただ黙りこんで、いつものくだらない軽口もたたけなくなって、そうしてまたゲンコツで小突かれる。

 

 「なんだか女の子みたいな反応だね。…あ!さては、恋でもしたか?」

 

 ドキッとした。胸から心臓が飛び出してくるかと思った。それを悟られまいと必死になって頭を巡らせて、ようやく一言言葉にできた。

 

 「恋は落ちるものなんです。」

 

 あなたは「何お決まりの言葉吐いてんの!」と言って僕をまた小突く。それでまたさらに僕は深みにハマってしまったのを感じていた。

 

 こじらせて溺れだすと困ったことになる。それが恋のよくない一面かもしれない。

1. Kiss したいと思っても言えない

 21世紀がはじまるより昔に、僕はあなたに恋をした。落ちて溺れて焦がれながら、Kiss したいと言い出せない、そんな恋を。

 季節は夏だったと思う。思い出に残る空がとても深く青かったのと、その青を背負って真っ白な雲が積み上がっていたのと、そしてあの土砂降りの雨を忘れていないから。あの日あなたが揺らいでいなかったなら、そのまま溺れていつか愛するようになっていただろうか。それでもあの日、僕はまだ恋でしかない想いを胸に焦がし、愛せずにあなたの前から立ち去った。それを思い出すと、ほんの少しばかり胸の奥が痛く感じるんだ。

 

 はじめての出逢いは、何のことはないアルバイト先が同じところで、あなたは僕の先輩で、僕はただのフリーターだった。ウェイターの仕事を教えてもらうことになって、いろいろ聞いたり話したり。あなたは一回り僕より背が低く、なのにいつも偉そうに構えて、くだらないことを僕が言えばとたんにゴツンとグーで小突く。…少しだけ苦手な人だと思ったのは知らないだろうな。

 そうして半年が過ぎた頃、バイト仲間で飲み会をする日があった。

 

 毎日バイトに出ていてけれど、あんなに仲間がいるとは知らなかったな。デシャップに割り当てられた僕は、ホールにいるみんなの顔を知っているつもりでいたけれど、シフトが合わなかった人が多かったのかな、あなたと仲よさ気なあの娘に気が付かずに半年も過ごしていたっけ。飲み会の席であなたと僕の間に座ったその娘は、僕が冗談を言うとコロコロと笑って楽しそうにしていた。それを見ながらあなたのゲンコツが飛んでくるのをよけきれなくて、そうしてそれを見てまたあの娘が笑うんだ。はじめて感じた。嬉しかった。

 その飲み会の帰り道に、あなたは先に帰ると言い僕とあの娘もそれにならって、同じ電車で同じ方角、最初に降りたのはあの娘で、次に降りる僕の駅までの間、あなたは僕にこんなことを言いはじめた。

 

 「仲良くなってよかったね。どうせなら付き合っちゃえば?」

 

 キョトンとした顔を僕はしていたと思う。

 

 「何言ってるんですか先輩。付き合うなんてできっこないでしょ、僕貧乏なんだから。」

 「馬鹿ね、そんなの関係ないわよ。二人して楽しそうだったじゃない。さっきだって駅に降りてからずっとあなたのこと見てたわよ。」

 「無理無理無理。現実的じゃないでしょ。貧乏すぎて毎日バイトのシフト入ってんすよ。デートのひとつもできないってのに。」

 「はぁ…。なさけない。」

 「なんと言われようと無理なものは無理です。それにそもそも、好きとかそういう気持ちないっすから。」

 「…そうなの?本当に?」

 

 そう言って窓の外を眺めるあなたの、少し微笑んだような横顔を見て、その時僕は落ちたんだと思う、恋というやつに。Kiss をしたいなと素直に思って、けれどそれを言い出せない、そんな恋に落ちたんだ。

 

 「あ、ほら。もう着くよ。降りるんでしょ次で。」

 

 電車が駅について、ホームに降りる僕の背中に、あなたが言ったどうでもない一言が今も鮮明に耳の奥に蘇る。

 

 「また明日ね。同じシフトだから、遅刻したらこれだからね。」

 

 つきだしたこぶしが可愛らしく小さくて、僕は頭をかいて笑っていた。何か言い返そうにも言葉がうまく見つからなくて、笑うしかなかった。

 

 「返事は?」

 

 「はい。」と、小さく答えたと思う。けれどその時電車の扉が閉まって、そうしてあなたはその先の駅に。僕は降りたホームの上で走り去っていく電車を眺めながら、あなたの笑顔を思い出して胸が暖かくなるのを感じていた。

 

 こうして僕は恋に落ちた。けれどあなたはそれを知らない。